公益財団法人山形県国際交流協会 AIRY

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ボリーバルの桜 ― 日本とアルゼンチンの架け橋となった山形県人(機関誌AIRY75号から)

日本とはちょうど地球の反対側に位置する南米アルゼンチン。この国の首都ブエノスアイレスから南西約340kmのところに、人口約2.6万人の町、ボリーバル市があります。アルゼンチン山形県人会では、毎年この地に桜の苗木を植える活動を続けているのですが、活動を始めるようになったいきさつを、二人の山形県出身者、伊藤清蔵博士と佐藤駒雄山形県人会会長のドラマチックな人生とともに紹介します。

時は明治8(1875)年3月、北口村(現在の河北町谷地)で、旧士族で地域の教育者、伊藤(やすし)家の長男として伊藤清蔵は誕生した。旧制山形中学に進むが、ことあるごとに北海道の雄大な自然を語り、その開拓の必要性を説く、札幌農学校第三期卒業生の校長に感化され、明治25 (1892)年に札幌農学校予科に入学。在学中は、米独留学から帰国したばかりの新渡戸稲造教授から大きな影響を受けた。キリスト教の信仰を持つのもこの頃である。

明治33(1900)年、本科(農業経済学科)を首席で卒業した清蔵は、そのまま同校の助教授となる。明治36(1903)年、盛岡高等農林学校(現岩手大)の教授に推薦され、その準備のため、ドイツのボン大学へ3年間留学することになった。

ボンでは、下宿先のディッシュ家にオルガという娘がおり、女学校の教師をしていた。彼女からドイツ語を教わるようになったのだが、一緒に散歩したり、家族の音楽会に同席したりするうち、次第に恋心が芽生えていった。しかし、日本には養わなければならない老母や弟妹がいるし、もし彼女を日本に連れて行っても、文化の異なる日本で幸せにはできないだろうと考えた清蔵は、ボンを離れ、サクセン州のハルレ大学に転学。しかし、清蔵との別れを寂しがるオルガから手紙が届くようになり、1年以上文通が続いた。清蔵にしても、オルガに惹かれる思いは同じであり、留学の最後の半年は、論文作成との名目で、再びボン大学へ戻ってきた。帰国前、オルガと交際を続ける約束をし、清蔵は一人日本に帰国した。

帰国した清蔵は、盛岡高等農林学校(現岩手大)で教鞭をとる。ドイツ留学中に父親は他界し、残された母と兄弟たちが谷地に住んでいたが、家族を盛岡に呼び寄せ、一緒に暮らし始めた。

その頃、清蔵との交際に反対だったオルガの父は、清蔵から届いた手紙を没収し、二人の交際を妨害した。オルガの母親は理解してくれたが、父親とのいさかいを避けるために、オルガは外国での教師の仕事を求め、パリでアルゼンチンの富豪カルロス・ディアスべレスの娘の家庭教師をすることにした。そこで気に入られたオルガは、3年後、ディアスべレス家の家族と共にアルゼンチンへ渡り、ブエノスアイレスで家庭教師を続けることになる。

家族を盛岡に呼び寄せて半年ほど経ったころ、アルゼンチンのオルガから頻繁に手紙が届くようになった。そこには、アルゼンチンの農牧業の詳細な様子とともに、清蔵にアルゼンチンでの農牧業を勧めるディアスベレス氏の言葉が綴られていた。興味を持った清蔵は、早速アルゼンチンの農牧業について調べ始め、その魅力に取り付かれると、教授という安定した立場も何もかも捨てて、南米行を決意したのだった。

明治42(1909)年6月、清蔵は日本を後にし、シベリヤ経由でヨーロッパへ。結婚のために3年ぶりに南米から戻っていたオルガとドイツで再会し、8月末には単身アルゼンチンへ下見に行く。ディアスべレス氏を訪ね、10㎢の農場の借地契約を済ませると、ドイツに戻り、12月6日にオルガと結婚、新婚旅行を兼ねて、フランス経由で再びアルゼンチンに向かった。

翌年1月1日、夫妻を乗せた英国船アルトリア号はブエノスアイレスに到着。二人の南米生活が始まった。農業経営の専門家である清蔵は、緻密な計画を立てながら、広大な牧場で農牧業を営んだ。潤沢な資金があるわけでもなく、借地に牛を預かって肥育することから始めていった。牛、羊、豚の飼育、トウモロコシ、麦の栽培などを手がけながら、旱魃や霜害、イナゴの襲来、10年周期で巡ってくる農業大恐慌といった試練に見舞われることもあったものの、牧場主自ら汗を流して働く勤勉さと、如何にすれば利益が上がるか常に計量しながら経営する堅実性、時代の動きを見据えながら、時に大胆な選択をも試みる冒険性を備え、実践していった清蔵は、着実に成功を収めていった。大正13(1924)年には、ボリーバルから70kmほど離れたところに35㎢の広大な農地を購入、借地も入れると80㎢の牧場を経営する大牧場主となる。富士牧場と名づけ、多い時は、1万2千頭もの家畜を飼育した。

昭和16(1941)年11月、清蔵は狭心症で急逝。子どもに恵まれず、後継者もいなかったため、オルガ夫人は牧場を処分し、ボリーバル市に移り住んだ。1951年に夫人が亡くなると、全財産は遺言により修道院に寄付され、夫人の住居は不遇な子どものための孤児院となった。「オガール・イトウ」と名づけられたこの孤児院には、現在も数十名の子どもたちが暮らしている。

伊藤清蔵博士
オルガ夫人

清蔵が富士牧場の牧場主になった2年後の昭和元(1926)年4月、米沢市で佐藤駒雄が誕生した。

米沢興譲館中学校(旧制)を卒業後は、米沢工業専門学校(現山形大学工学部)機械科に進学し、そこで終戦を迎えた。学校では、エンジンの研究をしていたが、ある時、アルゼンチンからの手紙が届いた。工場をやるので誰か来る人がないだろうかという内容だった。ドイツへの留学経験のあった当時の指導教官からも、将来のために外国を見ておくことの重要性を諭され、2年間だけならと、行くことを決意した。2年経ったら学校に戻るつもりで、まさか南米に移住するなど考えも及ばなかった。

当時は講和条約も未締結だったため、日本政府としてパスポートを発行することができず、スウェーデン政府発行のパスポートを入手し、昭和26(1951)年5月、オランダ船ルイス号に乗って日本を後にした。

約1か月半にわたる長旅の末、7月4日にアルゼンチンのブエノスアイレスに到着。港からさらに数時間車で移動し、到着したところは、見渡す限りの農園で、どこにも工場らしきものは見当たらない。怪訝に思い、工場はどこにあるのか雇い主に尋ねたら、「そんなものはここにはない」と平然と答えるではないか。何のことはない、人を呼び寄せるための、ただの作り話だったのだ。娘婿にと考えていたらしい。一瞬耳を疑い呆然とするものの、元々2年たったら日本に戻る予定だったから、「それなら今すぐ日本に帰らせてもらいます」と丁重に断ったところ、それまで親切に振舞っていた雇い主が突然態度を変え、「船賃さえ返してくれれば、明日からお前は自由の身だ」と睨みつけてきた。ドルの持ち合わせなどある訳もなく、黙って働くしかなかった。

主家から追い出され、肥料兼にわとり小屋で暮らすことに。そこは、ベッドもない、ただの土間だった。レンガを積み重ね、柳の丸太を針金で縛ってベッドを作り、肥料袋に少し草を積めて敷き布団代わり。毛布1枚かぶっての乞食のような生活だった。毎朝4時10分前に起床、市場に花売りに行く主人のために、一人でトラックに花積み、それが一日の仕事の始まりだった。1日中働き詰めで、夕食は夜10時。その後市場用の花の準備をしてベッドにつくのが深夜の1時。睡眠時間3時間の毎日だった。

2年近く経ったころ、そろそろ船賃も返せたのではないかと思って聞いてみると、船賃が6000ペソで、給料は月90ペソ。給料を全額返済に充てたとしても、5,6年かかる。月々の給料を渡してもらえなかったので、給料がいくらか知る由もなかった。このままここにいたら人生ダメになると思い、思い切って知人から借金し、船賃を全額返済。ちょうど2年間働いたところで農園を出た。

その後、ブエノスアイレス州で花卉栽培を手掛ける酒田出身の吉宮昇氏の下で3年8か月働いて知人の借金を返済し、晴れて自由の身になることができた。

日本を出て5年8か月、いまさらおめおめと帰国するのもプライドが許さず、アルゼンチンに残ることを決意する。工学部出身ということで、日本の商社4社から誘いがあったが、人に使われるのはもうこりごりと、自分で花屋を開き独立した。

ある日本人の紹介で、現在の綾子夫人と結婚。レタス王と呼ばれるほどレタス栽培で成功したことのある義父と共同で花卉栽培の農園を立ち上げ、グラジオラス栽培で大成功。他にも、野菜やイチゴの栽培も手がけ、イチゴをヨーロッパに輸出するまでに事業を拡大していった。


そのような成功を収めた佐藤駒雄氏が、伊藤博士のことを知るのは、1988年、県人会会長になってからのことである。せっかく創立された県人会も、日本に出稼ぎに行ってしまう人が相次ぐなどして、集まる人が少なくなっていた。2世、3世には、日系人という意識も薄れてきている。今後の県人会をどうすればよいかと頭を悩ませていた頃、母校興譲館の校長の「将来を思うならば、過去を尋ねよ」という言葉を思い出した。過去の県人の足跡をたどる中で出会ったのが、伊藤清蔵博士の著書「南米に農牧三十年」だった。博士の功績に感動し、県人会創立30年を前に、お墓に線香を上げようとボリーバル市を訪れた。どこにあるのかも知らずに出かけたのだが、立ち寄った事務所の事務員がたまたまオルガ夫人の遠縁にあたる人で、彼女の案内で、孤児院「オガール・イトウ」や伊藤夫妻のお墓を訪ねることができた。夫妻の墓は、オガール・イトウの子供達が毎週掃除し野花を供えて守ってくれていた。

この時から県人会とボリーバル市との交流が始まった。市内に花を飾ったり、孤児院や老人ホームの支援をしたり、さまざまな活動を続けてきた。 

鉢花と野菜を持ち寄り、催し物の際に即売会を開くなどしながら、1年かけて資金を集め、1996(平8)年、ボリーバル市内に夫妻の顕彰碑を建立した。さらに、アルゼンチンに来てから一度も日本の土を踏むことのなかった伊藤博士を想い、また、ボリーバル市民に日本の桜を楽しんでもらおうと、碑の周りや市内の公園に桜の木が植えられた。除幕式には、ボリーバル市長をはじめ、市の有力者や大勢の邦人が駆けつけ、市をあげての盛大な式典となった。

伊藤博士が移住して100周年に当たる2010(平12)年にも再び桜の苗木が植えられ、その後、毎年植樹活動を続けている。

県人会の皆さんが植えた桜の木は、時代を超えて、日本とアルゼンチンの友好の象徴となっていくことでしょう。

伊藤博士夫妻のお墓の前の佐藤夫妻
ボリーバル市の公園に植えた桜の苗木
旧富士牧場内邸宅前の県人会の皆さん

参考資料 「南米に農牧三十年」

「南米に農牧三十年」 伊藤清蔵著 宮越太陽堂

「アルゼンチンの大牧場主 ―草の根技術協力のパイオニア伊藤清蔵博士」  オイスカ・ウルグアイ総局 2002

「やまがた20世紀  伊藤清蔵博士」 山形新聞 平成10.11.24